四の章  
北颪 きたおろし (お侍 extra)
 



    閑話休題  柑子の実




 左腕の義手から生じた不具合への手当てのためにと、ほんの二十日ほど留守にしただけだのに。結構な散らかりようを呈していた家の中には、七郎次も正直呆れたようであり。確かに急な出立だったが、それでも…物の有り処が判らぬほど、とんでもなく散らかしたまま此処を離れた自分ではなかった筈だと思うにつけ、
“これだから もう。”
 正に“男所帯”の典型、どうせまた使うものだからとかいう解釈の下、出しっ放しにされた雑具が取っ散らかりの、畳んであるのか、いやさ洗ってあるのかも怪しい衣類の山が、隣りの寝間の隅に出来上がっておりのと。自分も男ではあるけれど、そんなことをするから物を見失っての探すのにまた散らかすか、見つからぬからと見切って無駄に新しいのを増やすかしてしまい、ますます散らかすのが関の山だのにねぇとの、しょっぱそうな苦笑が絶えなかったおっ母様だったりし。とはいえ、
「おや?」
 箒を取りにと足を運びかけた土間の隅。ふと、気がついたのが、奥の方にあった小部屋の前だけは妙に片付いていたこと。開かずの間を思わせるよに、続く空間を示唆する板戸があるにも関わらず、その前へ積まれていた炭桶だの芝の束だのが、今はすっかりと避けられていて。あれれと手をかけるとスルリと開く。その奥は物置扱いになっていたはずが、今はきれいに片付いており。足元にはすのこが敷かれてあって、その奥向きには小判型の風呂桶が据えられてあって。連子窓から射し入る陽を受けて、乾いた側板に嵌められた赤銅の箍枠が鈍く光っているのが、何とはなく意外な風景だったりし。
「…湯殿。」
 そんな空間の跡らしいなというのは、表の丁度ここいらの外に炊き口があるので知ってはいたが、それこそ使えないまま朽ちかかっていたはずだがと。この変わりようへと唖然としている七郎次へ、
「これから雪も降るというからの。利吉のところへ湯をもらいに行くのも、いちいち難儀になろうからと。」
 そうという勘兵衛の声がし、肩越しに振り返った視線を受けての、にこりと笑んだ蓬髪の御主様、
「平八と五郎兵衛が修理してくれたのだ。」
 自分たちも使わせてもらいますからとの気を利かせた彼らを手伝って。久蔵と勘兵衛とで修理によさげな乾いた倒木を集めて来の、水汲みが難儀にならぬようという工夫を施し。色々様々に、念を入れての丁寧に。ちょいと広めで2、3人が一遍に入れる規模の、結構立派な湯殿が完成したのが3日前。だだら怠けておったのではないぞと、言いたいらしい勘兵衛へ、
「大したものじゃありませんか。」
 これはこれはと七郎次が感心したのも束の間のこと。
「此処で今日も一日お疲れさまと湯に浸かっての体を延ばす甲斐があるように。とっととあちこち片付けてしまいましょうね?」
 勿論手伝ってもらいますよと言下に含んでいるのだろう。凶悪なまでの目映さで“にぃっこり”と微笑った、日常という舞台に於いては最強のおっ母様だったりし。そして、
「…。(承知)」
 言われずともということか、先程飲用の水を汲んで来たのとは別の手桶を引っ提げた手際も慣れたもの、裏手の川へ向かった誰かさんの背中を眸で追って、
「………。」
 何かしら感じ入る要素は消えないままなのか。当人も気づかずの所作だろう、微かに小首を傾けてしまった七郎次の様子。これまたそれとはなく見やっての、

 “…どうなることかの。”

 案じてやりつつも今はまだ、勢い込んでの性急になるでもないことと。その口許へこっそりと、淡い苦笑を浮かべてしまった壮年様だったりするのである。どこか遠くで鳴いたはヒタキか。漠と満ちていた静謐を蹴立てるように、余韻を長々と響かせて飛び去ったその後は、明るいながらも寂寥の気配がいや増した。頭上には青天ひろがる、晩秋の午後である。





   ◇  ◇  ◇




 少しばかり時を溯った、とある不安な晩を明かした翌日の早朝。静かな神無が黎明に浸されつつあった刻のこと。

  “…。”

 目が覚めると同時、外界に触れんとする表層へまで浮かび上がった意識が、今置かれている状態のあれやこれやを隅々まで拾い上げる。やみくもに瞼を上げて視覚を確保すればいいというものじゃあなく、時によってはそのまま、寝たふりをしていた方が得策な場合もあるのだが、
“…。”
 そんなこんなと棘々しくも警戒する必要はないのだと。浮上しすぎた神経を“どうどう”と宥めるようにくるみ込む、それは鷹揚で頼もしい気配があって。それを拾うと同時、我知らず、ほうと息をついていた久蔵だった。それにつられて身の緊張も解かれたか、こちらから外へと放っていた索敵の意識が消えたと同時、入れ替わりのように彼の内へ、やさしく滲み入るものがある。やんわりとした温みは、身を寄せ合っている相手の肌の熱。神無村の仮住まい、住居にと提供された古農家の、ここは寝間だとそこまでを思い出しながら、

 “…。”

 朝の静謐の中、思い出すのは一昨日の宵のこと。荒野まで迎えにと来てくれたこの彼と共に、ちょうど道程の半ばだったこともあり、陽が落ちると砂漠もどきの荒野を吹きわたる風が強まるのを避けるため、休息を兼ねてそこで夜を明かそうと岩屋まで逃れた。今そうしているように、精悍な匂いのする温みの心地いい、大きな外套の中へと一緒にくるまれて。風籟の音を聞きながら、夜の底をやり過ごしたのだけれど。

 ―― ああ、いつぞやもこうしていたことがあった。

 神無村での戦いが片付いて、さて。次は都に捕らわれている女たちを取り戻さねばと、戦果が向こうへ届かぬうちに動いた勘兵衛を追ってのこと。荒野の夜の底、やはりそうして過ごしたのを思い出し。あの時は、この男しか眼中になかったからそれで、見失うのが不安でつい、後追いしたのだったっけ。今もその執着は変わらぬはずなのに、
『…。』
 あの折の不安とはまた別の、居心地の悪いうそ寒さが足元から迫り上がって来るようで。一昨日の晩もまた落ち着けなかった久蔵で。頼もしい温み、頼もしい腕。何かから逃れたくてのつい、懐ろへとねじ込むようにその身を寄せた。心許なくて不安に思うは、心をあの人の元へ残して来たからかもと。思い出すことでまた、妙に居たたまれなくなってしまい、
『〜〜〜。』
 逃げ込むようにして胸元深くへ擦り寄れば、そのまま護るかのように大きな手が背中へ添えられ、支えてくれたものだから。懐ろの中から見上げれば、ランプを灯しただけという乏しい明かりの中、柔らかな眼差しが見下ろして来ていて。眠りなさいとの呪文のように、大きな手が何度も何度も、こちらの髪を梳いてくれた。衣紋越しに触れていた躯は、相変わらず頑健で…精悍で。その男臭さにふと、すがりたかったものだろか。もう一歩とにじり寄るよに身を寄せながら、少しだけ…甘えるような求めの挑発を、視線の中へと滲ませてもみたけれど、
『…。』
 笑みが濃くなったそのまま、
『疲れたろうから休め』
 勘兵衛はそうと囁いただけ。何を知っていた彼だったものか、いやいや何も知らぬくせにと。むずがりにも似た苛立ちが、久蔵の中で沸き立ちかけたものの、
『…っ。』
 額へ小さく口づけてくれてのそれから、甘露なまでの贅を尽くした言葉の代わり、頼もしい双腕がぎゅうと抱きしめてくれたので。その充実へこそ甘えてのこと、何も考えずにいようと目を閉じた途端、呆気ないほど簡単に眠りにつけた。

 “…無防備なことよ。”

 それはお互い様だったが、それでも。男の無心な寝顔を見上げていると、何か呟かずにはおれなくて。寝間着にしている小袖を互いに一応はまとっているものの、体のどこかが気怠いのは、昨夜の睦みの名残りに違いなく。情を分け合った相手だからとて、こうまで無防備になれるものだろか。いやさ、
“情を分け合ったと言える仲だろか。”
 少なくともこちらからは“斬る”と公言しているのに。そんな存在を、こうまで頓着なく懐ろへ入れられるとは。しかもその上、熟睡まで出来ようとは。馬鹿にされているのか、斬られてもいいとの覚悟があってのことなのか。それとも…双手を挙げての嬉しいこととまでは言い難いが、不意を突いたり寝首をかいたりはしないと、久蔵の側の矜持の崇高さを見込まれての、つまりは信用されているということだろか。

 「…。」

 少しずつ明るむ中、間近になった存在が、温みや匂いだけでなくその姿もまた見えて来て。無心に眠る風貌やら肢体やらの、線の太さや雄々しさを否応もなくの見せつけられるにつけ。同じ男でもこうも違うものかと、あらためての感じ入る。思惟に耽る横顔の輪郭が意外なほどに端正で、長く延ばしての構いつけぬ蓬髪の陰、伏し目がちになったときの目許の憂いが印象的で。壮年相応の静謐さ、重厚な落ち着きは、知識深い哲学者をも思わせるのに、そこへと加えて…それらを凌駕して余りある、雄々しい体躯にまとわした、一種、蠱惑的なまでに精悍な男臭さはどうだろか。ひとたび刀を抜き放てば、野趣あふれての力強い、下手を打てば触れるものを片っ端から壊しかねないほどの勇壮さが、隠しようのない覇気を匂い立たせるばかりにあふれ出て、
“…あの時も。”
 初めて覲
(まみ)えたそのまま、双方とも抜刀して切り結んだあの場面。挑発したのはこちらだったが、已なく抜いた太刀の向こう、深色の瞳に昏く宿っていたのは、類い希なる青さを帯びた純然たる武火の光。浅黒い肌に包まれた屈強な筋骨が一顧の隙なく躍動し、その連動の見事さに圧倒される。こちらからの緩急自在で縦横無尽な太刀筋へ、一瞬たりとも後れを取らず。奇矯なところはないながら、どんな伏せ手を繰り出したとて、一手たりとも焦ることなく。豊かな実績の中からの対応、その身へなめらかに引き出してしまい、一気呵成に詰め寄らんとしたこちらを、見事な手管のうちにて振り回しての間合いへは決して寄せつけず。戦力として才を望んだからと斬れなかった訳ではなかったその証左には、それ以上の急所はなき首条の血脈のうえ、まだ跡が残るほど、刀の切っ先にて斬りつけられてもいたくらい。
“…。”
 難があるといえば一つだけ。その覇気は闊達で健やかなものではなく、罪を罪と認めての、重い業を帯びたものであり。それが時には、男の風貌へ陰惨で妖冶な自嘲の陰を滲ませてやまず。大戦中は“戦果よりもきっと生きて還れ”というのが口癖だったと、七郎次からそんな話を聞いた折には、誰のことを言っているのかと、怪訝な想いがしたものだった。まま、冷徹な刀しか振るえぬ身なのはこちらとて似たようなもの。それが成敗のための一閃であれ、誰ぞを屠るには違いなく。この男の戦いよう、重いの暗いのと誹謗する気は毛頭ない久蔵であり、

 『勘兵衛様を捕まえることなど、
  到底、どこの誰にも出来ぬことと諦めておりましたが。』

 誰ぞへ関心を、刀の腕という以外への関心を持たれたなんてと。七郎次が感じ入ったような声で口にしたのを、うとうとと眠りながら聞いていたのは、確かこの腕を治療した直後のことではなかったかと、短くなったギプスを見遣る。言を左右に仕掛かった勘兵衛だったものの、それへとムッとしたのも束の間のこと、
『…そうさの。悪あがきはもう無理なのかも知れぬな。』
『いつの間に、なのだろうかの。』
 間近でそうと呟いた彼の声の穏やかさに、何とも言えぬ温みが沸いて、そのまますとんと眠ったのを今でも覚えている。本当はその心根も熱くて懐っこい性をしていながら、自分の手が血に染まっているという罪への自覚が強すぎて。転嫁することも開き直ることも出来ぬまま、そんな自分は誰とも縁
(よしみ)を結ばずいなければと、堅く決めていたらしき頑固者。それが…練達探しという人を求める仕儀に関わったがため、こちらもまた魂揺さぶる練達を求めることしか知らなかった紅の胡蝶を、その六花へと招き寄せてしまっての、虜にして離さぬ蠱惑の威力の凄まじさよ。

 「…久蔵?」

 ぼんやりと思惟に耽っていたことをどう釈
(と)ったものか。低く掠れて、だが、深い響きが心地のいい、男の声がすぐ間近から立って。

  ―― ああ、この声だ。

 思うと同時、柄にもなく胸が震えてしまったのは。前の晩にははぐらかされたが、昨夜は逃がさず すがったところが、逆に捕まっての翻弄されたから。ごつりと大きな手で荒々しくも抱えられ、運ばれた先の衾へと埋めるように沈められ。組み敷かれての衣紋をはがれて、そのまま…さんざん良いようにねぶられての甘やかされたその末に。あまりの性急さに、ただでさえ慣れのないこと、その身を容赦なく高ぶらせて貫く、熱くて強い刺激に目が眩み、意識が追いつかずの置き去られ。しまいには勘兵衛の腕の中で気を失ってしまったらしき久蔵で。まだまだ抜けぬ羞恥から、声を咬み殺しての顔を覆うように押さえていた手、易々と退けさせて。顔を見せよ、声を聞かせよと、ずっと囁いていたのがこの声だったのを、
「〜〜〜。///////」
 頬を染めつつ思い出す。期待をしないという意味ではなくの、それでも誰へも何も求めぬ男だったものが。打って変わってのああまでの求めよう。正直、そのまま食われるかと思ったほどに、総身に及んだ強い手での蹂躙が余りに狂おしく。何処もをすべて、口づけて埋めんと触れて来た唇が、甘くて…そして、胸が煮えるほどに苦しくて。

 “…ほしい、か。”

 初めて肌を合わせたは、あの都との苛烈な戦いに挑んだ直前のこと。この世の名残りなどというつもりはなかったが、自分を欲しいと言った惣領殿の、生身の“生”を確かめたかったから、それで。半ばむずがるように求めた自分を、くるみ込んでの抱いてくれた勘兵衛であり。昨夜も昨夜で、自分の中にポカリと空いてた、覆いようのない虚空をまたも、温かで確かな存在で埋めてくれた。体が感じて翻弄された、稲妻みたいで抗い難かった刺激以上に。こちらの胸の底の凍えをそれは根気よくも温めての絆
(ほだ)してくれて。

  ―― それが“寂しい”という感情だなんて、それまで知らなかったから。

 ただただ閉塞を打ち払うための手ごたえが欲しくって。強い者を求めての、餓
(かつ)えていただけだと思ってた。何年ぶりかで立ち合えた、斬り伏せ切れない凄腕の本物。その手ごたえをこの手で独占したかった。自分が凌駕するために、誰にも倒させたりはしないと固執して。後を追いかけ、彼へとそそぐ凶刃から護りもし、やがては、手ごたえではなく勘兵衛そのものを独占したいと、想いが育って…今に至って。

 “…満たされて、いるのだよな? これって。”

 今だってそう。何とも応じぬままだのに、気を害すこともなく、そおと髪を撫で梳く、やはり強い手の重さが愛おしい。こうやって抱いて構ってくれたのは、先の何日か、そう、七郎次が虹雅渓に出向いていた折以来のこと。日頃は、こちらの腕がまだ完治に至ってないからか、判りやすく触れることもないまま、自分と七郎次とがじゃれ合うように過ごすのを、甘露よ眼福よと微笑ましげに見やっているだけの勘兵衛で。それが、
“…。”
 どうして彼には判ったのだろうか。得も言われぬ切迫感に、押し潰されそうになっていた久蔵であると。何かしら見失いかけたような気がして、胸が切なくて落ち着けず。それだのに追い立てられているようで居たたまれない。こんな想いは初めてで。どんなに苛烈な混戦の中であれ、冷ややかに冴えた部分が必ずあって、浮つきかかる自己を律し制御していたものだったのに。そんな制御をも凌駕するほどの、桁外れの危機感や肌が粟立つほどの脅威は、いっそ抑制を外してのそのまま、戦意を高ぶらせる要素へと喰ろうてしまえた自分だったものだのに。

 「………島田。」

 ただ呼びかけるにも、それしか思いつけなくて。そおと名を呼ぶと、んん?と伺う気配が立ったのと同時、堅い腕が伸びて来て、こちらをやんわりくるみ込む。

 「いかがした。」
 「…。」
 「まだ早い。もう一眠りせぬか。」
 「…。」
 「ああ、そうさな。急な留守居の穴埋めに、いかようにも構もうてもらおうぞ。」

 睦み方を知らぬ胡蝶の君が、怖ず怖ず延ばした手を取りて。その指先を軽く喰みながら、屈託なくも笑ってくれる。胸底が不安に凍えての切なくて堪らないのだろうと、この彼にはきっと判っているのだ。それを癒すために必要な“時”が過ぎるのへさえ焦れる久蔵へ、何をも思い煩わずに済むよう、どんな気散じにも応じるからと。それも…あくまでも彼の側からの我儘に付き合えという格好の、遠回しな言い方をすることで、久蔵を追い詰めないで済ませる勘兵衛であり。ああまた甘やかされてしもうたと、気づく余裕もないままに。ほれほれとじゃらされるまま、いつしか二度寝へ取り込まれてゆく端正な寝顔を見やりつつ、

 “勝四郎にも勝てぬほど、避け方見ぬ振りを知らぬ奴だからの。”

 誰への言い訳か、だから放ってはおけぬとの苦笑を一つ。味に笑んでの自分もまた、そろり瞼を降ろした壮年殿である。






  ◇  ◇  ◇



 白蝋のように玲瓏なその存在が、凄まじい速さで宙を飛びながら、軽やか自在な八叟跳びを披露しつつ、縦横無尽に双刀閃かせての斬りかかり。何十機といた雷電部隊を壊滅させたのは紛うことなき事実であり。あれほどの力を発揮出来よう途轍もないバネを、この嫋やかな痩躯の中、一体どのように呑んでいるのやら。

 『久蔵殿の様子がおかしいのが気になって。』

 それは唐突に“村へ戻る”と急に言い出したこと、電信で知らせて来たおりにちらとこぼしていた七郎次であり。虹雅渓といや、久蔵も綾磨呂公の護衛役として長く居た土地、馴染みもあろうにどうしたことか。本人は“手持ち無沙汰だから”というような言いようをしてはいたけれど、七郎次の意識が戻ってからもその傍らに、慣れないながらも看護役としてずっと寄り添うていてくれたものが、あまりに急な態度の変わりよう。
『アタシの方からも、知らず頼っていたんでしょうかね。』
 自分を残して行ってしまうのかと、ついついどぎまぎしてしまったと。口調はあくまでも冗談めかそうとする朗らかなそれだったものの、欠片ほども思わなかったなら、気丈な彼だ、例えとしてだって出て来ぬ言いようではなかろうか。勘兵衛にはそれもまた、何ともかあいらしい物思いに受け取れてならなかったほど。それはそれとして、
“…様子がおかしい、か。”
 時の流れさえ穏やかに、物事が節季単位で動く此処とは違い、虹雅渓は常に人々が明日へ次へとせわしく動いている街だから。そんなところへ足を運んで、しかも心を占めていた懸念が去ったその途端、明日を見よと指さされるような何をか、拾った久蔵であったのかもしれない。
“…。”
 あまり多くを語らぬ彼ではあれど、この若さであの大戦に関わった身であるということは、刀に生きるということ、それしか教わらなかったに違いなく。
生き残れた奇跡を彼へと招いたその辣腕はだが、戦さが終われば何の役にも立たぬ術と化した。刀で己の生を確かめるということ。そのまま貫くにはあまりにも、戦後の世は爛熟を極めていてのぐずぐずと膿んで柔らかく。自分たちが不器用ゆえ活路を見いだせずに浪人に落ちたと同様、彼もまた、ああまで特化された鋭い天才肌であるがゆえ、咬みつく先を失ってしまい。周囲の凄まじい復興力を対岸のものとし、停滞と閉塞に少しずつ侵食されていたものが。

  ―― お主を斬るのは、この俺だ。

 そこから彼を揺り起こしたのは、間違いなくこの自分だ。こちらだとて今時これほどの練達がいようとはと驚いたほどのその相手が、自分を叩き起こした責任を取れとばかりについて来て、仕事が終わるまで待つと言う。刀以外を知らない身。それでこその桁外れな強さを望んだはこちらだのに、余計な構いつけをして…刀以外のこと、考えてみよ感じてみよと彼のどこかを変えてしまった。恐らくはその余波が、こたびの帰還で何かを彼に拾わせたのだろうと思われて。

 “…いっそのこと。”

 そう。いっそのこと、この自分が無くてはおれぬようにまで、進退窮まるよう囲い込んでの心奪って、この手の中へ追い落としてやろうかと思わぬでもなかったけれど。彼ほどの不器用者には、そのくらい強引にこちらを向けと引っ張り上げてやり、巧妙な段取りの中へと絡め捕ってしまい。だのにそれらを、あくまでも自分で選んだことだという軛木にて束縛してやった方が。あとあとの面倒も思考も、全てを勘兵衛のせいにも出来て、いっそ楽かも知れぬと感じもしたのだけれど。

 “そのような相手でも場合でもない、か。”

 何よりあまりに痛々しい。そんな画策など一瞥にて弾き返すような、冷然とした中に行き場を求める何かをふつふつと滾
(たぎ)らせていた、そんな彼へまで戻ってくれなければと、今はただ傍観の構えの惣領殿であるらしく。

 “…。”

 顔や名のみならず、声も気性も温みも知った存在を相手に策を弄すのは、どうにも面倒だなと嘆息する壮年殿であり。それが、好ましいと思う相手が出来たからこその気後れだと、古女房から揶揄されるのは、それからずんと後年のこと。勘兵衛様にもそんな可愛らしい戸惑いをお覚えの時がおありだったのですねぇと、自分がその場に居合わせなかったことを悔しそうにしていた、本末転倒な彼だったこともまた、笑いの種になったのだけれども。それらがお目見えしたは、残念ながらずっとの後日。今はまだ、混迷の途上にいる彼らであり。

 「おやおや、やっておりますな。」

 おっ母様が戻ってそうそう、いきなりの大掃除が始まったお隣りへ、こんなことじゃないかとは思いましたがとお顔を出したは五郎兵衛殿で。虹雅渓から着て帰った新しい羽織を脱いでの、内着の袖をば勇ましくもまくり上げ。取っ散らかしたる張本人の、男ども二人を上手に使い、出しっ放しになっていた雑貨をしまわせ、ざっと箒をかけたあとをば、手際よくも雑巾がけしていた七郎次。鼻白むこともないままにお顔を上げると、
「男所帯の典型になっておりましたゆえ。」
 お陰様で、まださほど片付け上手ではなかった軍隊時代を思い出しましたよと、眉を下げてのはんなりと、困ったことよと苦笑する。ああこれはまた、いつもの調子がすっかり戻ったものだなぁとの感慨も深いまま、
「埃で喉も渇くかと思うての。」
 そろそろ手を止め、おやつになさいませぬかと言うように、隣家の壮年殿がひょいと差し出したのが、ザルに盛られた蜜柑の小山。昨日南側の村にて餅つきを手伝ったところ、餅とそれから木箱に一杯、これをいただいたのだとか。
「今年はどこの村も余裕の冬籠もりとなるらしい。」
 神無村に襲い来ていた野伏せりは、周縁地域の村をも襲っていたらしく。それが来ないこの秋とあって、どの村でも収穫の幸いとそんな豊かさに心暖まる感慨というもの、しみじみ思い出してもいるのだろう。
「これは、ありがとうございます。」
 虹雅渓には相変わらず、様々な物資が滞りなく届いておったのだろうがの。いえいえ、こんなもぎたての果物は、移送されてくるからこそ高価でしてね。なかなか庶民の口にまではと、愛おしむよに七郎次が手の先で撫でてやった蜜柑の橙は、陽光がそのまま結実したかのような明るい色合い。晩秋のつれないほど澄み渡った空の青には、妙に似合いの色味でもあって。
「ほら、久蔵殿。」
 ちょっと休みましょうと手渡された実の冷たさへ、
「…。」
 何を思い出したか、ちょっぴり胸の奥が揺れかけたものの。見上げた先には大好きなお人の久方ぶりの優しい笑顔。こっちよりもそっちがいいと、手を延べての袖を引いて見せる、いかにも稚い所作へと気づいて、
「お?」
「…あらら。//////」
「おやおや。」
 大人たちがほんわり頬笑んだ、まだ一応は秋という名の昼下がりでござったそうな。





  〜Fine〜  07.11.30.


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 *という訳で。
  まだまだ続くぞ、ややこしいぐるんぐるん…の、
  四章の後編が始まる前のお浚いといいますか。
  どういうカッコで一旦は心の整理をつけた彼らなのか、
  三者三様の想い、整頓を兼ねて紡いでみました。
  どうやら おさまは、またもや静観の構えらしいです。
  キュウを惹き寄せ、シチさんを引き逢わせた そもそもの火種のくせして。
  ………大人って。
(苦笑)

 *あんまりダイジェスト風なばかりですので…ちょっとおまけ →